エネルギーと電気

エネルギーと電気

エネルギーとは?

一般に私たちは、ガス、電気などをエネルギーと呼んだり、食物をエネルギー源だと呼んだりするが、エネルギーという事を中学校の理科参考書(『理科第1分野中学辞典』数学研究社』を紐解いてみると、「物質が移動、動作、燃焼等の仕事をする能力」とある。エネルギーには位置エネルギー、運動エネルギー、弾性エネルギー、電気エネルギー、熱エネルギー、光エネルギー、化学エネルギー、原子エネルギーなどがあり、位置エネルギーと運動のエネルギーを複合して力学的エネルギーと称する。 太陽光発電は、光エネルギーを使って電気エネルギーを生み出す行為だとも定義ができる。水力発電は物にもよるが、位置エネルギーと運動エネルギーを用いていることが多い。火力発電、地熱発電は熱エネルギー、風力発電は運動エネルギー等カテゴリ分けができるとされている。 また、電池で電球が点灯したり、ラジコンカーなどが動いたりする場合は、化学エネルギーによって電気エネルギーが生み出され、光、ないしは運動エネルギーに変化させられている状態であると定義できる。 私達は発電機や電池で電気エネルギーを熱エネルギー、光エネルギーなどに形を変えて使用しているが、その場合もエネルギー量の総和は変わらない。 太陽光発電の場合、パネルが受けた光エネルギーと比例して(発電機の馬力にもよるが、理論上は)電気エネルギーが生み出されていくことになる。太陽光パネルはいかに太陽の光を効率よく吸収できるかを研究、そして開発された機器だと言える

エネルギーの変遷

電気だけではなく、私たちが日常的に使っているすべてのエネルギーは「発見」「発明」されたものである。「発見」「発明」という事は、それ以前には電気なり、ガスなり、蒸気機関なりがなかったという事である。私たちは電気がない生活など考えもできないが、エジソンの白熱電球発明以前は電燈などなかったことは事実であった。 電気の役割のうち、薄暗い室内に光をもたらすという役目は太陽の光や火の明るさで代用できる。いや、価値基準を我々に置くことはよそう。電気灯やガス灯がこれらの代用なのだ。現在でも使われている蝋燭のほか、松脂をしみこませた松明、植物および動物起源の油を張った小皿を使った灯りなどがよく使われていたようだ。これらは徐々に燃え尽きていくので、その長さ等で時間をはかる時計の役割をしていた。中世ヨーロッパの蝋燭は1日の長さに合わせて作られていたという。 さて、物を少ない力で動かしたり、情報を処理、伝達したりすることは太陽や火では一部を除いて代用できない。蒸気機関がワットらによって改良(それ以前にもあることは有った)されるまで、殆どの動力は人力、もしくは動物の力で賄われていた。未だにエンジンなどの動力を馬力と呼ぶことがあるのはそのためである。また、自然環境に恵まれた場合は、風力(風車)水力(水車)を用いることができ、灌漑や脱穀などに多くの力を発揮し、現在でも1部の地域では稼働し続けている。風力発電などはその技術を受け継ぎ、形を変えたものだと言える。

産業革命の功罪

織機の改良、それと関係の深い蒸気機関の改良に端を発したIndustrial Revolution、つま り産業革命は宗教改革religious reformation(歴史学ではただ単純the reformationと呼ばれることがある)と並んで「ふたつのR」と呼び称せられる歴史的事項であるが、現在はその評価に陰りが差し、単純に工業化と呼ばれるようになってきた。なぜならば、革命とは、私達をそれまでの理不尽且つ不自由な環境、ある種の奴隷状態から解き放つための「目覚めの運動」であり、その享受者の幸福を最大限に約束する社会変革でなければならないからである。まあ、フランス革命やイギリス清教徒革命がその当時の人々の幸福に最大限寄与したかは疑問が残るが、人間らしさ(ユマニテ)の追求と迷信的な封建制からの脱却に1役買ったのは確かである。ブランギが記述し、エンゲルスが広めたのが産業革命という用語だが、この動力源の変化がもたらしたものは利便性や労働効率の向上ばかりでなく、貧富の差の拡大、農村の空洞化、粗悪な労働環境(近代日本の富岡製糸場などの記録にその様子がうかがえる。また、燃料になる石炭の採掘の為に体が小さく狭いところに入れる子供を炭鉱労働者として借り出すなど人権面でも問題があった)夏目漱石の『倫敦塔』に描写される工場のスモッグで常に曇った空に代表される、大気汚染等その未来にいる私達に課題を残すものであった。そのため、前述した中立の立場の工業化という言葉が書籍などでは用いられるが、皇后の合理化が、思想、社会システム自体の変革に貢献し近代人と生み出したとされる英国史上では変わりなく産業革命と称される。

電気とは何ぞや?

私達の周囲で電気は様々な働きをする。筆者も電力で発光する蛍光灯のもとで電力で情報処理するパソコンを使ってこの原稿を書いているし、多くの人の移動手段である電車も電力で動いている。実際に触れる機会は少ないが、リニアモーターカーなどに使われる電磁なども電気の働きである。服にたっぷりの猫の毛をつけてくれる静電気等時に厄介なこともしてくれるが、私たちの歩みが電気と共にあることは間違いない。 では、この電気、一体何者であろうか。電気とは電荷によって発生する物理学事象だと定義される。電荷とは、物質をのもとのもとである素粒子が持つひとつの属性で、磁力と同じように陰陽がある。陽電荷と陰電荷は引き合い、陽電荷同士もしくは陰電荷同士は反発するという原則も磁力と同様である。物理学的に電荷と言った場合は、この性質自体を示す場合とその量を示す場合がある。この反発現象などを起因として電荷が高速で移動もしくは結合することで生じるのが電気という現象であり、電荷がある1面を移動する量を電流と呼ぶ。電流はアンペアで表され、ブレーカーやアイロンなどにその記号を見ることがある。気温や室内の調度、居住する人数などの物理条件で値は変化するが、エアコンで10畳分を暖房するときには平均6.6アンペアかかると言われている。アンペアと共に家電製品などに表記されていることが多いキロワットは電力のする仕事の量を示す単位である。蒸気機関の改良者ワットの名にちなんでいる。

電気の歴史

果たしてその有用性を一般の人々が認識していたかどうかははなはだ怪しいが、自然界にもとから存在する事象、例えば、雷や静電気によって電気というものの存在を古代人はよく知っていたようだ。物をこすりあわせると、静電気が起きる現象を摩擦帯電と称するが、ギリシャのタレス(紀元前600年ごろの人物)が琥珀amberと布などをこすりあわせると埃などを吸い寄せるといった事を記述している。この黄褐色から緑色、赤まで多彩な色彩を持つ植物由来の宝石は、現在のエレキ、エレクトロニクスなどの電気にまつわる言葉の語源になっており、エレクトロンと呼ばれていた。因みに琥珀はマイナスに帯電し、現在のamberという呼称はアラビア語の系譜を継いでいる。 雷については我が国でもよく知られ、その音量と熱量、衝撃の強さから天の怒りとして恐れられていた。謀略によって大宰府に左遷させられた菅原道真はその後内裏に落雷があったり、事件の関係者が流行り病などで亡くなったりしたことから、「天神」として恐れられ、各地に天満宮が建てられることになった。彼にまつわるエピソードは幾つもあり、「飛梅」「梅は食うとも核食うな中に天神寝てござる(梅の未熟な子実にはシアン化合物が含まれており人体に有害である。梅をこよなく愛した道真の怒りだとして食べるのを戒めたもの)」と言った言葉によく現れている。厄介な物事から距離を置くときに言う「くわばら」という名は道真の所領であった桑原という土地にだけ雷が落ちなかったという故事からとられた1種の呪文であったという説がある。雷が電気であることを発見したのはフランクリンの凧の実験(1752)によってのことであるので、古代人が恐ろしがるのも無理はなかったのだろう。

電気が無くなったらどうなる

私達の生活は常に電気のもたらす利便性と共にあり、それが無くなることなど想像したこともなかった人が多いだろう。しかし、東日本大震災の停電とその後の原発事故を受けての計画停電は私たちの緩みきった警戒心に冷や水を浴びせた。止まって戸が開かなくなったエレベーター、データーを閲覧できず、人工呼吸器などの機器を自家発電や人力で動かさざるを得なくなった医療機関、電子での取引が行えず、休業や手動での業務が行われた金融機関。慌てて石油ストーブや湯たんぽを取り出す市民たち、冷却ができずに次々に捨てられていく食品の数々……。店頭に乾電池と懐中電灯が無くなったあの日から随分と時間がたったように思えるが、私たちはまだ2回目の夏を迎えたばかりである。震災の被害に直接会っていなくても、電力供給の停止による2次被害がトラウマになっている人もいるのではないか。 電気が使えないという状態は私たちの生活をかくの如く破壊する。今年(2012)も電力供給量が追いつかなければ、計画停電が行われる予定になっているが、経済活動はおろか、人命すら左右しかねない。この原稿を書いている7月頭でも既に節電を意識しすぎて空調を使わず熱中症で搬送された人が出てきている。 暗闇と不自由の恐怖と向き合うための私達の選択肢は3つである。ひとつ、このままのインフラを使い続け、電気が止まる恐怖と隣り合わせに生きていく。2に電気を捨てて昔のような不自由を忍ぶ(まず不可能だと言われている)3に技術の開発を急ぎ、安全で安定した電気供給もしくは他のエネルギーが皆の手にいきわたるように尽力する。国家がどの道を選ぶかは、私達市民1人1人の日常の選択の末にあるものだという事を忘れないでいたいものである。


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